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株式会社エミリンク

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対談

小原院長の”いま一番気になる人・仕事”スペシャル対談
2017.8.31 ストーン探訪3Tの会×小原忠士

平成2年の開院以来、25年間にわたり地元連島を中心に多くの住民の方から信頼を頂き、皆様の健康に貢献してきた小原整骨院。その小原院長が“いま一番気になる人・仕事”というテーマで、ゲストの方と対談をして頂きました。今回は、磐座(イワクラ)に魅せられた3人の郷土史研究グループ「ストーン探訪3Tの会」をお招きし、磐座(イワクラ)研究への情熱について語り合って頂きました。(2017年8月31日(木)ロイヤルホスト倉敷店にて)

「今の日本人には、まだアイデンティティー…石への崇拝が残っています。それを思い出せるのが日本人。石には神様が宿るという意識をもともと日本人は持っています。それはモニュメント的な意味合いではなく、賽の河原で石を積むような意味合いですね。ある種の畏れというか…。それが日本人のDNAにはあります。」

津曲 真人
(熊山遺跡群調査研究会理事)

1953年 岡山県和気郡出身。磐座(イワクラ)・古代史の研究を専門とする歴史の知識人。「熊山遺跡群調査研究会」の理事。「おいでんせぇ岡山」など幅広く歴史研究に携わっている。

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遠山 義雄
(吉備路ボランティア観光ガイド)

1952年 姫路市出身。「民俗学会」所属。歴史観光ボランティアでの案内活動。オカリナサークル活動などの傍、県内外の史跡探訪に携わっている。

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高森 利夫
(横仙歌舞伎指導者)

1946年 奈義町出身。奈義町の歌舞伎人という経歴を持ち、横仙歌舞伎の継承者の育成をする傍、「ストーン探訪3Tの会」において現地交渉人という役割を担当。人当たりの良い笑顔と人柄を生かし、地元への先鋒役として活躍している。

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小原 忠士
(小原整骨院 院長)

1964 年 倉敷市出身。地元である倉敷市連島で開院以来24年にわたり地域の皆様の健康に貢献してきた小原整骨院の院長。
柔道整復師としての技術力は当然、その穏やかな人柄で多くの患者に慕われ、スタッフからの信頼も厚い。2014 年6 月には株式会社エミリンクとして法人設立。
代表取締役となる。

俣野 浩志
(株式会社パッション)

岡山市出身。一般社団法人ウェブ解析士協会認定 初級ウェブ解析士。経営修士(MBA:香川大学大学院地域マネジメント研究科)。大学でマーケティングを学んだ後11 年間印刷・デザイン業界に勤務。2009 年に岡山県産業振興財団主催のベンチャー・ビジネスプランコンテストにて奨励賞を受賞。2013 年大学院にて「住民主体の体験交流型プログラムが地域社会に与える影響についての考察」というテーマで、NPO のまちづくりを研究した。

同じ地域の歴史を紐解いていくにも、お互いの立ち位置が違うので、自分には持っていない面白い視点からアプローチしてくる、だから自分では思いつかない解釈が出てくる。それがお互いに新鮮でね。

俣 野:
今回は、磐座(イワクラ)に魅せられた3人の郷土史研究グループ「ストーン探訪3Tの会」をお招きし、磐座(イワクラ)研究への情熱について語り合って頂きたいと思います。まずは皆さんとの出会いをお伺いしたいのですが…。
小 原:
皆さんとの出会いは、吉備中央町の中山良二さんからの紹介です。今年の夏、ブッポウソウを一目見ようと吉備中央町に足を運んだときに、ブッポウソウ吉備中央町会事務局長の中山良二さんにお会いし、話の中から、面白い石の研究をされてる方がいらっしゃるとお聞きし、高森さんに繋げて頂きました。

高森:
そうでしたね。小原さんから、吉備中央町の研究している石について教えていただけないかと連絡がありました。それならばと、ストーン探訪のメンバー、津曲、遠山も一緒に来てもらいました。
小 原:
それでは早速なのですが…。皆さんはどのような出会いでグループに?


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遠山:
はい。私と津曲さんは歴史研究会で20年前に知り合ったんですが、二人とも歴史に興味を持っていて、それぞれに活動をしていたのですが、歴史といっても私の方は民俗学に関心があり、民族的なもの、慣習やら風習など宗教民俗学に興味を強く感じていたんです。津曲さんは史跡、主に古代史の方に興味をお持ちだった。

津曲:
そうですね。だからというか、同じ地域の歴史を紐解いていくにも、お互いの立ち位置が違うので、自分には持っていない面白い視点からアプローチしてくる、だから自分では思いつかない解釈が出てくる。それがお互いに新鮮でね。

遠山:
そうそう。そういう活動の中で、現地調査をするときに高森さんが活躍してくれるんですよ。

津曲:
うんうん。高森さんが地元の人との交渉に当たってくれてるんですよ。特に磐座(イワクラ)は山林に点在していることが多く、そのほとんどは私有地なんですよ。なので地権者の了解を得ないと調査ができないんです。

高森:
ははは、私は、お二人と違って素人でしてね、ただ歴史が好きなだけの…。ただ昔から人との関わりが好きで、知らない人とでもすぐ仲良くなれるんですよ。だから地元の方との交渉役をやってます。

津曲:
いえいえ、高森さん、素人ではないですよ。それにとにかく地元の方と仲良くなるのがお得意で…。土地に入らせてもらうのに了解がいただけないと何もできないからね。大切な仕事ですよ。交渉は。
小 原:
なるほど、立ち位置が違うので、違う視点から研究できるわけですね。それに役割も明確で…。なんだか楽しそうですね。ところで、今回、すごい発見があったと伺いましたが?

津曲:
はい。まだ正式なことは言えませんが、今年の6月に吉備中央町に古代シュメールの石碑(ストーン)が眠っていると…30年前の郷土史を研究していた本からわかったんです。これは面白いんじゃないかと、早速3人で調べに行きましてね。

遠山:
当初は、そんな石が本当にあるのか?って半信半疑で…この辺かなっていろいろなところを探して、発見するのに時間がかかった。

高森:
1ヶ月かかったかな。

津曲:
うん。かかった。でも発見できた。現物を見ると確かにシュメール文字に酷似しているんですね。果たして本当にシュメールなのか? それとも古代ストーンヘンジのような石碑なのか? 興味が湧いて研究に入った。各分野の見識者も集めてね。今、その解明に努めているところです。

遠山:
こういった石碑は周りにも同様のものがあるケースがほとんどなので、周辺にもあるんじゃないかと探したら、やっぱりあった。和田地区の青木山に巨石群が眠っていたんですよ。おそらく古代の祭祀遺跡であるのではないかと、関連性を調査しています。


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小 原:
シュメール文字?! 世界史…学生時代に授業で習ったことくらいしかわからないです…(笑)。確か、かなり古い文明だったと思いますが、中東でしたかね。

津曲:
そうです。チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域ですね。メソポタミア文明とも言われますが、その初期の頃にシュメール人がいたとされています。そのシュメール人が使っていたのがシュメール文字です。
小 原:
そのシュメール人が日本に来ていたと?

遠山:
いやいや、まだ調査中で明言はできませんよ。ただ、私たちはそう推理していましてね。

津曲:
そそもそもシュメール人はかなり高度な知識や技術力やを持った民族で、「製鉄」、「稲作」、「石を削る」、「灌漑」の技術を持っていたとされています。そういう人たちが土着の民族よりも上に立ち、みかじめ料などをとっていた。そういう民族なんですね。
 よく勘違いされますが、世界四大文明の一つと言われるエジプト文明ですが、実際はメソポタミアの後です。
 最初の文字体系として発見されたのシュメールの楔形文字、ギルガメッシュ叙事詩が残っています。後のハンムラビ法典にも文字体系は継承されています…これは有名です。それからエジプトヒエログリフ、象形文字が残っています。インダス文字とかはシュメールの影響を受けたとされています。ですから、エジプト文明はメソポタミア文明のかなり後なんです。
 ところが、そのシュメール人が姿を消すんです。アッカドやバビロニアの支配を受け、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されてシュメール人が姿を消してしまいます。北に押し上げられて逃げていって、バラバラに各地へ散っていった。散り散りになったんです。シルクロードの北と南に別れて。その時に日本にも来ているのではないか?と。
 紀元前5000年から3000年の間、日本が縄文時代中期の頃に来て…日本民族の歴史にも影響を与えたと思います。。実は、日本の石器時代が長くはないんです、それこそ、土器時代が世界で一番早かったんですよ。


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小 原:
壮大ですね。もう想像をはるかに超えていて、理解が追いついて行きませんが…。シュメール人が来たことで日本民族に様々な影響を!なんだか眠れなくなりそうです(笑)。

津曲:
ははは。日本各地にそれらしき磐座(イワクラ)が残されているんですよ。他の県にもあります、六甲山など…シュメール文字とは確定できていないのですが。岡山には、後2ヶ所あります。岡山空港近くの池田神社、美作の「袴ヶ山」。本当にシュメール人が日本に来た可能性を否定できないんです。興味深いでしょう。

遠山:
津曲さんは、古代史の立場から見られていますが、ちょっと宗教民俗学の立場からお話ししましょうか。その時代に文字を残そうとした場合、岩、石に彫るしかなかった。面白いのは日本人の宗教観がそれを後押ししたと考えられることです。
 通常、宗教というのは、教祖がいて教理があり教団があるのが創唱宗教とされます。ところが、日本人は自然宗教の形が残っているんです。アニミズム。日本的にいうところの「八百万の神」ですね。その中に後から神道や仏教が入ってきている。日本人だけ、こういう自然宗教が残っているのは。神道は自然宗教の名残を色濃く残していて、巨木や巨石、山をご神体とする神社も多いです。
 実は崇拝するこの巨石のことを「磐座(イワクラ)」というんです。一つの石を拝むのを「磐座」、複数の石を拝むのを「磐境(イワサカ)」と言います。有名なところでは、イギリスのストーンヘンジがありますが、それは天文学ではなく自然宗教なんです。石を祀っているんです。フランス「カルナックの石列」これも磐座の石。全てキリスト教の発展により失われてしまった。キリスト教圏のヨーロッパは石の文化です。生活に石を利用します。ですから石は加工するものという意識を持っています。日本は石の文化ではないので、石を崇拝するんです。今の日本人には、まだアイデンティティー…石への崇拝が残っています。それを思い出せるのが日本人。石には神様が宿るという意識をもともと日本人は持っています。それはモニュメント的な意味合いではなく、賽の河原で石を積むような意味合いですね。ある種の畏れというか…。それが日本人のDNAにはあります。

高森:
確かに、日本人はよく石を拝む民族だと思います。現地を調査すると必ずといっていいほど、何か刻まれた石が見つかります。道祖神なのか道標石碑なのか、それとも石仏なのかわかりませんが…。どういう役割の石であるかも今となってはわからないくらい風化していても、なぜかお供え物がある(笑)。

津曲:
ははは。そうそう(笑)。でも面白いのは、磐座のあるところは、高くて見晴らしのいい場所に作られることが多いのですが、実は磐座がある場所というのは、携帯電話の通信アンテナが立っていることがとても多いんです。そういう見晴らしの良い場所は神がいらっしゃる「座」として、崇められ、祀られる場所なのでしょうが…。高いところにあって、見晴らしがいいから電波が届きやすくて…通信アンテナが同じところに(笑)。通信アンテナ目印に探すこともあるんですよ。
小 原:
なるほど。神様は確かに高いところにいらっしゃることが多い(笑)。面白い一致です。シュメール文字と磐座のお話、なかなか壮大ですし、基礎知識がないと理解が進みますね(笑)。ただ、古代日本にシュメール人が来たのではないかという仮説を展開されている理由がわかりました。とても興味深いです。

津曲:
でしょう。近々、さらに詳しい専門家を交えて追加調査に行きますから、また調査結果を報告しますよ。多分、さらに興味深い事実が出るんじゃないかと期待しています。

遠山:
そうですね。でも研究者の言う興味深い事実とは…さらなる“謎”疑問のことなんです。謎は深まるばかりと言う(笑)。

高森:
それが楽しいんでしょう。お二方は特に。逆に解明してしまうと困る(笑)。

津曲:
確かに、解明してしまうと寂しい(笑)。


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小 原:
ははは。本当に歴史がお好きなんですね。では詳しくはまた語ってください。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

遠山:
こちらこそ、ありがとうございました。

高森:
ありがとうございました。

津曲:
また語らせてください。ありがとうございました。