古市 了一
株式会社ふるいち 代表取締役会長
音声
■サポート(提供)
小原整骨院(倉敷市連島中央2-3-22)、こはら鍼灸整骨院(倉敷市平田615)、cocoro from 小原整骨院(岡山市南区下中野1407-6)、古閑俊行話し方スクール、株式会社パッション、株式会社アンスリール、オーセンティック合同会社、公益社団法人倉敷市シルバー人材センター
■挿入曲
神様は見ているよ / 古市了一
第77回目のゲストは、地元倉敷のソウルフード「ふるいちのぶっかけうどん」の事業を展開する、株式会社ふるいちの会長でありながら、人々を魅了する素敵な歌声で、精力的に歌手活動を行なっている古市了一さんをゲストにお迎えし、うどんに対する熱い思い、歌に対する熱い思いをお伺いしました。
前半:ぶっかけうどん誕生秘話〜「うどん天下一決定戦」連続優勝、真備の復興支援へ
ぶっかけうどんの誕生は1970年くらい。当時は、小6か中1くらいの時。大きな転機になった。親父が麻雀をやっていなかったら、ぶっかけは生まれていない。ざるうどんを持ってこいと言われて、持っていったら、食べにくいので一つの丼に入れてこいと言われて、それだけでは味がないので具材を入れて持っていったら。親父がうまいからこれを出そうと、翌日から商品になった。
モンドセレクションも3年最高金賞を受賞。これもなかなか取れない。「ぶっかけうどん」を真の倉敷名物に、全国に、世界に。というのを若い頃から言い続けてきた。ずっとスタッフとともにあたためてきた。倉敷の人がぶっかけを名物だと言ってもらうにはどうしたら良いかと考えてやってきた。それがモンドセレクションとうどん大会日本一に繋がった。
私たちの倉敷という風土の中で生まれたぶっかけうどんが、倉敷の皆さんに愛されるソウルフードになっていく、というのが大きな目標だった。浸透してきたと思う。全国で放送され大きく広めてくれた。ソウルフードとして認められるようにというのを後押ししてくれた。観光客が食べたい名物の3つの中に必ず入っている。
後半:歌のこと、目指すもの
うどん屋なのに何故歌を歌っているのか?とよく言われる。
家業のうどん屋を幼少期から見て中学高校では手伝ってきたが、16歳の時に歌の世界に入リたいと思った。18歳で本気で歌手になりたいと思ったのは、文化祭でアリスをやったらスカウトが来たり、ハードロックでは岡山ナンバーワンのバンドがボーカルになってくれと言ってきた時。その時にプロになろうと思った。
「不死鳥」超ハードロック、バンヘイレンとかツッぺリン、次が「イエロー」は山下達郎的な曲をやっていた。その後、クラブで歌ったり…うどんやりながら歌をやっていた時期が23歳まで続いた。それほどまでに歌の世界でプロになりたかった。
TBSの長崎歌謡祭で勝ったら東京に出れるというチャンスがあった。しかし現実は厳しく、実力差を思い知らされた。そこが一つの転機となった。一旦、歌ではない世界に入り、40歳でまたプロを目指そう、それまではうどんに集中しようと決断した。
歌が上手い人間はいくらでもいる。その中で一部の人間だけが引き上げてもらって、お金をかけてもらって初めて、それ以上にもっと磨かれるということ。歌もセンスも何もかも。それならば、歌をやるにしても自分に投資できる人間にならないといけないと、強く思った。
20歳の時に「うどんを日本一にしたい」というのと「歌でプロになる」という目標を持った。歌の方が叶わなかった。中途半端になると思ったので、まず自分が稼げるようになって、自分に投資できる環境を整えた経済的な基盤を。まず家業を成功させよう、落ち着いたらプロデビューをしようと思った。
事業も大成功を収め、歌もカーネギーホールで歌うなど多くのチャンスにも恵まれ、歌手活動にも力を入れている。現在は、「食べるエンターテイメント、観るエンターテイメントの融合」これが、これからの時代だと思っており、自分にしかできないジャンルだと自負している。