2018.1.18 第37回 高森 利夫

アーティスト

高森 利夫

義太夫、横仙歌舞伎保存会

音声

■サポート(提供)

小原整骨院(倉敷市連島中央2-3-22)、こはら鍼灸整骨院(倉敷市平田615)、cocoro from 小原整骨院(岡山市南区下中野1407-6)、古閑俊行話し方スクール、株式会社パッション、株式会社アンスリール、オーセンティック合同会社、公益社団法人倉敷市シルバー人材センター
■挿入曲
オープニング曲:Jump / Van Halen
エンディング曲:Stand by me / Ben E. King
BGM:Happy Island / 押尾コータロー
■ゲストによるリクエスト曲
糸 / 中島みゆき(ゲストによる弾き方り)

横仙歌舞伎はいわゆる農村歌舞伎で、農民たちの数少ない娯楽の一つとして、江戸時代後期から昭和初期にかけて全国的に広まった素人芝居。地下芝居とも言う。県境の町である奈義町では、この伝統が息づいていたが、戦後の高度経済成長を機に映画やテレビなどの娯楽が普及し、農村から若者が流出し急速に衰退。それを見かねた父が、横仙歌舞伎の保存と継承に乗り出した。

 父の初舞台は11歳。よっぽど歌舞伎の魅力に取り憑かれたのか、東京で警察官として勤務していた時、毎日のように芝居小屋に出入りしていた。退職して故郷の奈義町にもどり本格的に大阪の山下梅之介に師事、素人歌舞伎の演出を始めた。この時すでに地元はもちろんのこと、小豆島や広島県にも指導に行っていた。 退職金を叩いて衣装を揃え一座を編成“売り芝居(興行公演)”に出かけ、役者や義太夫、三味線と舞台にも出演していた。

こうした父の活動が評価され、岡山県重要無形民俗文化財の指定を受け、横仙歌舞伎保存会が発足。歌舞伎の衣装ってとても高い。他の地域で衣装やカツラを揃えるのが難しいところに父は貸し出していたの。現在でも、奈義町がバックアップしている地域もある。 7歳で初舞台、父から教わった。3人兄弟の末っ子「河原乞食のような真似はさせない」という父の方針で、公務員に。兄二人に歌舞伎のことは任せていたが、継ぐ予定だった兄が早く亡くなり継ぐことに。

47歳の時、30年勤めた県警を辞め、奈義町に帰り親の面倒をみながら継いだ。 歌舞伎だけでは食べてはいけない。幸いに、町が社会福祉課の臨時職員で雇ってくれた。それから正式に三味線を習い義太夫を習い…横仙歌舞伎に深く携わっていくようになった。そうこうしていくうちに先輩方が倒れられたり、亡くなったりし、正式に継ぐことに。岡山に住んで、現在はデイサービスの送迎をしながら歌舞伎に携わっている。 

浄瑠璃を語れるのは、現在2人。私と奈義町役場の歌舞伎専門員。浄瑠璃が難しくとっつきにくいのは、台本の文字が勘亭流のような文字で、読めない。節回しがありそれが台本に書かれていない。さらに伴奏の三味線を演奏しなくてはない。語るときは、舞台を見ながら、譜面を見ながらを両立、それが難しい。全国的にも浄瑠璃を語れる人が少ない。

後継者を作っていくのが悩みのタネ。滋賀県のだんじり歌舞伎も、人がいなくて義太夫を呼んでいる。東北はまだ結構残っている、それでも義太夫が少ないので、テープレコーダーを使って公演しているところもある。残っているのは小豆島の歌舞伎一座。中国地方はいない。 浄瑠璃の三味線は、津軽三味線のように激しくない、民謡の三味線とも違う。三味線も構造は同じだが竿が太く、犬の皮を使っている、音は聞きやすい。浄瑠璃の三味線は、音で声を表現する。それぞれのシーンの雰囲気を三味線で出す。雪のシーン、悲しいシーンなど。義太夫にも何種類かのイントロがありそれらを覚えて演奏できるようになるもも大変。

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